生と死の語り方  「わたしたち」の物語を紡ぐ

 

大谷いづみ 修士論文概要(上越教育大学大学院 2002.3修了)

 

1.問題の設定

 以下に,題目の意味するところを説明し,問題の設定とする。

(1) 主題目の「語り方」には,以下の二重の含意がある。

@ 巷間語られている「生と死の問題群」の語り方

 生と死の問題群の是非を問いつつ生命を序列化と死への廃棄と導く語り方,すなわち自己決定+功利主義+市場原理+新優生学の共犯関係を導き出す語り方

A オルタナティヴな生と死の問題群の語り方

 当事者に沈黙を強いない,これまで語り得なかった人々の沈黙をすくい取れるような語り方,問いの立て方,すなわち,新たな親密圏/公共圏の構築に接続する語り方

すなわち,本研究は巷間語られる「生と死の問題群の是非を問う」言説が,生命を「質による序列化と死への廃棄」に導くものであることを明らかにし,そうではない語り方,問いの立て方を提案するものである。

(2) 副題の「わたしたち」には,主題目のAを受けて以下の四重の含意がある。

@ 生と死の問題群について,自分を棚上げにせず自分を問題に織り込んで考えること。

 私情を排し「客観的」に問題に取り組むという,いわゆる科学的態度が,とりわけ生と死の「語り」においては,問題を核心から逸らせ,考察者を評論家的態度や知的遊戯に陥らせてしまう。本研究は超越的立場から俯瞰的に問題を見下ろすことを許さない立場に立つ。

A 自己の複数性:

 自己はもはや一つの首尾一貫し統合された主体ではない。にもかかわらず,これをひとつに無理矢理統合しようとすることが,生命の序列化と死への廃棄に導いている。自己の中に散在する諸要素(さまざまな属性を持つ自分。矛盾した自己,自分の中の不気味なもの,目を背けたい自己)を見つめ受容し承認し酌みとる。

B 自他の関係性:

 自己を問うことが自閉の闇に陥ることであってはならない。自分の内部の他者性を許容することは,他人の他者性を許容する鍵である。同時に,他者との交わりのなかで自己の複数性に気づきこれを育んでいくことにもなろう。自己と他者の関係のなかで生み出されるものに着目する

C @ABから導き出される公共性

「わたし」を抹消し廃棄する共同性ではなく,自他の関係性において開かれる新たな公共性  親密圏/公共圏を構想する。すなわち,本研究は,「自己」の実存のありようを問うことから出発し,自己の中の他者を自覚することで他者と交わり,そこから親密圏/公共圏という新たな公共性に開かれる方途を探るものである。

(3) 副題の「物語」には以下の二重の含意がある。

本研究は,生と死に関してあるべき規範を説く規範的倫理学ではなく,生と死の倫理的問題がどのように記述され語られているかを構築主義的に解読し,オルタナティブな語り方を模索する試みである。したがって,

@ 第1・2・3章において,巷間もてはやされがちな最前衛の「生命倫理学」言説(P.シンガー流の生と死の新たな「大きな物語」)を批判的に解読する。

A 第4章において,語り得ぬ人々,沈黙を強いられてきた人々の視点に立脚した語り,つまりアイデンティティを疎外し合わない,「小さき人々」の「自らの物語」の語りを提案する。

(4)「紡ぐ」には次の含意がある。

 出来合いのアイデンティティを拒否して「自らの物語」をつくることは,自動機械に身を委ねるのではなく,手をかけ時間を注いで「自分で」紡ぎ織り出さなければならない行為であり,またその意志と覚悟を要求する。そこには,機械を排して手工業に拘った,ラッダイト的反逆の意思が込められている。

 

2.研究の概要

(1) 研究の方法

 本研究で用いたのは,構築主義と系譜学の手法である。第1章においては,生殖医療技術の発達と親子の絆をめぐる問題群を,第2章においては,延命治療技術の発達のなかで主張されるに至った「死ぬ権利」をめぐる問題群を,第3章においては,生命の質による序列化と死への廃棄に導く優生学と優生政策をめぐる言説を,系譜学的にたどった。第4章は,いわばアイデンティティをめぐる構築主義的アプローチである。自己の語り(ナラティヴ)を道具立てに,被傷性(ヴァルネラビリテイ)という概念にも焦点を当て,自己の複数性にもとづく自他の対話を検討した。

(2) 研究の成果

 第1章では,1978年の体外受精の登場を機に,生殖医療技術の「進歩」が加速度的に早まり,自己決定と市場原理のもとで,従前の想像をはるかに超えた「親子」や,死後生殖が実現し,さらにはクローニングも不妊「治療」の一環として期待されているアメリカの現状が世界中に喧伝されるなかで,特に「産む性」を背負った女性が,「自然」という曖昧な概念と「常識」の権力作用のなかで引き裂かれていることを明らかにした。また,出生前診断と,遺伝子への介入技術が,「愛」の名のもとに,生命を生まれるべきものと生まれるべからざるものとに分け,より良い子ども,より好みの子どもへの欲望を肥大化させようとしていることとともに,子どもに対する肥大化した期待が子ども自身にとっては抑圧にもなっていることを明らかにした。さらに,生殖医療技術の「選択」が,自己決定によって自由に選ばれたものであるかのように見えながら,複雑に絡み合う排除と抑圧の構造のなかで,女性や障害者といったマイノリティに更なる抑圧を強めていることを明らかにした。

 第2章では,「死ぬ権利」が,「質の低下した生命」を持つ者が,本人の「自由意思」において尊厳ある死を求めるものであること,換言すれば,質によって序列化され,低位置におかれた生命を,「尊厳」の名のもとに,自ら死へと廃棄するものであることを明らかにした。この選択が自己決定による自由な選択を装いつつ,実際には代行決定を伴う曖昧さを免れないこと,また限られた医療資源,社会資源という文脈のなかで,排除と抑圧の構造をもち,死ぬ権利と死なせる権利,死ぬ義務と死なせる義務の間を交錯するものであることを明らかにした。

 第3章では,「質による生命の序列化と死への廃棄」が,優生政策及び「安楽死」政策として,象徴的に体現された例として,ナチズム下で起きたことを中心に検討し,同根の思想が,現在の「生と死の問題群」をめぐる語りのなかにも存在していること,それが自己決定の原理の権力作用なかで,より潜在化した形でより巧妙に,個々の人間に内面化されていることを明らかにした。

 第4章では,生命を質による序列化と死への廃棄に導かない語りとして自己の語りを検討することで,「生と死の問題群」がアイデンティティの承認の問題であること,そのためには,語り手,聞き手の双方が,自らの脆さ・傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)において,自分自身を引き裂かれることが要請されざるを得ないことを明らかにした。しかし,被傷性に呼応する「自己のなかの他者」と「他者のなかの自己」と対話にこそ,生命を質による序列化と死への廃棄に導かない親密圏/公共圏への回路が開かれるものであることを示した。

(3) 研究の結論

 本研究の結論は,以下のとおりである。

 「生と死」への問いは,アイデンティティへの問いである。それは,他者に向けて問われる前に,何よりもまず自らに向けて問われるものである。しかし,自分自身(アイデンティティ)とは,一個の堅固な,不滅の巌ではない。万華鏡のように傷つきやすい(ヴァルネラブルな)煌めきを秘めた,複雑で多面的なものである。それは,善悪を併せもった人間の内面世界の深奥の物語である。だが,その深奥の襞にわけいって自らの複数な他者と対話することこそが,「生と死」の物語を,生命を質による序列化と死への廃棄に導く,もっともらしい「大きな物語」に回収させず,自己と他者の溝を跨ぐ,親密な「わたし・たち」の物語を紡ぎだすのものにほかならない。

(指導 二谷貞夫・葛西賢太)