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『人間の尊厳と生命倫理・生命法』 ホセ・ヨンパルト/秋葉悦子 20061225 成文堂,192p. ASIN: 479230413X 2500+税 ◆ホセ・ヨンパルト/秋葉悦子, 20061225, 『人間の尊厳と生命倫理・生命法』,成文堂,192p. ASIN: 479230413X 2500+税 [amazon]/[boople] oi 内容(「BOOK」データベースより) 人間の尊厳に根差した人格主義の立場から、生命科学技術をめぐる諸問題を法哲学、倫理学、刑法学的に考察。 内容(「MARC」データベースより) 「人間の尊厳」に根差した人格主義の立場から、生命倫理・生命法に関する「治療行為」「生殖行為」「殺害行為」をめぐる諸問題を法哲学、倫理学、刑法学的に考察。人間の尊厳の尊重義務について具体的に深く考えさせる一冊。 ■目次 第1部 総論:人間の尊厳 I テーマに入る前に 1 理性と概念と言葉 2 言葉の捉え方と概念のコノテーション 3 「人間の尊厳」に関する概念と専門用語 4 言葉と概念の歴史的な変化 II 「人間の尊厳」思想の歴史 1 はじめに 2 「人間の尊厳」思想の三つの時代 3 キリスト教のdignitas humana 4 世俗化された「人間の尊厳」 5 法律上の人間の尊厳 III 人間の尊厳とは何か。人間の尊厳に関する重要な言葉遣いの内容と歴史的背景 1 人間の尊厳に関して使われている言葉とその意味内容 2 人間の尊厳を理解するための15命題 3 「人間の尊厳」とは何か 4 人間の尊厳に関する言葉遣いの意味内容の確認と歴史的背景 IV 憲法の問題としての「個人の尊重」、「人間の尊厳」および「個人の尊厳」 1 はじめに 2 日本国憲法における「個人の尊重」と「人間の尊厳」 3 「個人の尊厳」 V なぜ例外なく人間の尊厳を尊重すべきなのか 1 「人間の尊厳」に関する存在と当為の問題 2 人間の尊厳は価値だけの問題か 3 人間の尊厳を尊重する義務の根拠 VI 人間の尊厳は生命倫理と生命法の判断基準になりうるか 1 「人間の尊厳」の危機とその原因 2 尊厳主義対自由主義か 3 生命倫理・生命法の議論における決定的なもの――その1 4 生命倫理・生命法の議論における決定的なもの――その2 第2部 各論:生命倫理・生命法 第1章 治療行為をめぐる問題―患者の意思の尊重、先端医療技術の適正な使用、医療の客観的限界 I 2つのインフォームド・コンセント:人間の尊厳と個人の自己決定権の要請 1 インフォームド・コンセントのルーツ 2 ヒトを対象とした医学研究の正当化根拠としてのIC 3 医学研究におけるICの治療行為への波及(ドイツ) 4 患者の自己決定権に由来するIC(米国) 5 ICの倫理原則化:医師の職務倫理のレヴェル・アップ 6 終わりに II 執拗な治療(尊厳死) 1 先端医療技術の不適正な使用による人間の尊厳の侵害 2 執拗な治療の差控えと緩和ケアの保障:客観的基準による解決 3 自己決定権の保障:主観的基準による解決 4 主観的基準による解決の問題点 5 終わりに III 脳死と臓器移植 1 生物学上の死 2 臨床上の死 3 日本の状況――和田心臓移植事件から臓器移植法制定まで 4 臓器移植法成立後の状況 5 脳死者からの臓器移植をめぐる新たな問題点 第2章 生殖行為(procreation)をめぐる問題―ヒト胚の尊厳・生殖の尊厳:初期の生命・生命の始まりの保護 IV ヒト胚の研究利用 1 「生殖目的のクローニング」の禁止・「治療目的のクローニング」の推進 2 ヒト胚研究を許容する論理:ヒト胚の個体性、人格性の否定 3 人間の尊厳原則が要請するヒトのクローニングの全面禁止 V 生殖補助医療 1 子の権利を胚の段階から保護する生殖補助医療法 2 生殖補助医療技術が惹起する新たな人権侵害 3 日本における生殖補助医療技術の規制:研究優先主義 4 生殖目的のクローニングの処罰根拠の敷衍を 第3章 殺害行為をめぐる問題―人間の尊厳と生命の客観的価値:生命の等価性と殺害の禁止 VI 安楽死 1 古典的な安楽死:慈悲殺の論理 2 現代の安楽死:自己決定権の論理 3 積極的安楽死合法化の問題点 4 自己決定か生命か VII 人工妊娠中絶(早期安楽死) 1 現行法における胎児の保護――特に外部の攻撃からの保護 2 中絶胎児の保護 3 女性の自己決定権と優生思想の内在化 4 胎児の生命権の保護と葛藤状況にある女性の救済 5 生命の文化を築くために VIII 今日の日本において死刑は人間の尊厳に反するか 1 生命倫理・生命法の問題点としての死刑制度 2 今日の日本においても死刑制度はまだあるべきか 3 死刑存置論側から挙げられる論拠 4 日本の死刑執行の方法は人間の尊厳に反するか 5 死刑執行における恣意を排除する方法 あとがき――生命科学、生命倫理および生命法 執筆分担は、第一部と第二部VIIIがヨンパルト、第二部I-VIIが秋葉 ■引用 >目次 第2部 第1章 治療行為をめぐる問題 I 2つのインフォームド・コンセント:人間の尊厳と個人の自己決定権の要請 3 医学研究におけるICの治療行為への波及(ドイツ) 「[……]ドイツでは、患者の同意のない治療行為をめぐって早くから議論があり、治療行為は傷害罪の構成要件を充足するが、患者の同意がある場合は被害者の承諾の法理によりその違法性が阻却されると考える「治療行為障害説」が唱えられてきた。1894年のドイツ帝国大審院・骨癌判決はこの立場から[……]<70<[……]患者の承諾がなければ手術は違法であるとして、傷害罪の成立を認める判決を下した。この判決によってもたらされた「同意原則」は、戦後、[……]ドイツ連邦通常裁判所・第一筋腫判決(1957年)によって確立したと言われている。 [……]ドイツで治療行為についても同意原則が確立した背景には、人間の尊厳と人権の保護を目的として受容された医学研究倫理の影響もあったのではないかと思われる。[……] ドイツとは対照的に、日本では同意なき治療行為が刑事訴追された例は見当らない。[……]」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 70-71) >目次 II 執拗な治療(尊厳死) 1 先端医療技術の不適正な使用による人間の尊厳の侵害 「[……]尊厳死問題において危機に瀕しているのは文字通り患者の尊厳であって、厳密には「自己決定権」ではない。どの人間も皆等しく尊厳であるから、すでに患者が意識を失っており、何らの自己決定をなしえない場合でも、その尊厳と権利は平等に保護されなければならないからである。ここで本質的に問われているのは「先端医療技術の適正な使用」のあり方であり、それは死ぬ権利の問題というよりも、むしろ人はあらゆる可能な手段を用いて生きる義務があるか、という生のロジックで語られるべき問題である。欧州では「執拗な治療」(therapeutic obstinacy, イタリアではaccanimento terapeutico, フランスではobstination déraisonnableという表現が用いられる。直訳すれば「治療上の執拗さ」、「不合理な執拗さ」)という概念で捉えられている。尊厳死は患者サイドから、執拗な治療は医療従事者サイドから捉え<0081>られた概念であるとも言えるが、後者はより事態の本質に即した概念であるように思われる。この概念が日本でほとんど普及していないのは、尊厳死問題がもっぱら患者サイドから自己決定権の問題として考察されてきたことを示唆する。 「執拗な治療」とは、患者の状態を改善するいかなる具体的な希望も持ちえないとき、患者になんらの利益ももたらすことなく、死を人工的に遅らせる(あるいは生を延長する)治療を言う。[……] 「このように考えると[大谷注:前段を受け、「執拗な治療」によって患者は機械によって強制的に生かされている技術の奴隷のような状態に陥ると考えると]尊厳死の問題は、必ずしも本人の利益のみを目的とせず、たとえば新しい先端医療技術の開発や新しい装置または機械の性能を調べるために日常の臨床現場で患者に対して実施される臨床研究における被験者の尊厳と人権の保護の問題に接近する。イタリア医師会の職務倫理規定の公式コメンタールは、執拗な治療の例として、患者の予後が絶望的であるのに、科学的好奇心から、正確な診断を得るためにしか有益でない診療や研究の下に患者を置き続ける場合(その具体的な例として、癌を原因とする腫瘍形成病で転移を多発している末期患者について、最初に形成された癌を特定しようとする場合)を挙げている。いずれのケースも通常の治療とは異なり、患者の健康が最終目的ではなく、先端医療技術の機能が患者の健康に優先させられている。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 82) 2 執拗な治療の差控えと緩和ケアの保障:客観的基準による解決 「どのような手段を用いても開扉することのできない死が差し迫ったとき、不安定で苦痛に満ちた生命を引き延ばすに過ぎないような措置を放棄する決定は、道義的に正当である。ただし、同じようなケースにおいて患者に当然与えられるべき通常の治療が中断されてはならない」4) 。 注4) ヴァチカン教理省「安楽死についての声明」(Sacra Congregatio pro Doctrina Fidei, Declaratio de euthanasia, 1980, Acta Apostolicae Sedis 72(1980) 542-552)。声明全文の邦訳および解説として、宮川俊之『安楽死について―「バチカン声明」はこう考える−』(中央出版社、1983)。ほかに同『安楽死と宗教』(春秋社、1983)も参照。」<0083< イタリアでは1995年に医師の職務倫理規定の刷新が行われたが、執拗な治療と診断の差控えは最も重要な改正点の一つとされ、「正当な根拠に基づいて患者およびその生活の質の改善にとって何らの利益も期待できないときは、…いわゆる『執拗な診断と治療』を差し控えなければならない」(37条)という規定が新設された。これは医師の「誓約」にも盛り込まれた。 延命治療を執拗な治療と判断する基準については、延命治療によって当該患者に期待できる効果と治療に伴う負担とを衡量して、患者の容体と釣り合っているかどうかを判断する「釣り合ったケア(proportionate care)」と「不釣り合いなケア(unproportionate vare)」の原則が用いられる。これはヴァチカンによって提唱された基準であるが、医倫理の伝統的な基準「通常のケア(ordinary care)」と「通常外のケア(extraordinary care)」をより明確にしたものであり、欧州評議会や他の欧州諸国の生命倫理委員会や国内法で採用されている。 フランスで2005年4月に成立した「病者の権利と生命の終焉に関する法律5) も、1995年の医師の職業義務に関する法令37条をもとに、医師は「執拗な治療」(従来から用いられてきた“l'acharnement therapeutique”という表現は、ここでは“obstination déraisonnable”「不合理な執拗さ」という表現に改められている)を回避すべきであり、「無益、不釣り合いまたは生命を人工的に維持するだけの治療の中断または差控え」は、「瀕死者の尊厳を保護し、QOL(生活の質)を保障する」ものであるとして、これを許容している(第1条=公衆衛生法典L.1110-5条に編入)。」 「[……]いつ延命治療がその患者の容体と不釣り合いなものになるか、いつ治療行為から「執拗な治療」に変わるかは患者一人一人によって異なり、その判断は医師にとっても容易ではない。しかし、[……]先端医療技術を適正に使用することは医師の職務であり、医師は十分な「科学的知識」と「良心」に基づいて延命治療が当<0084<該患者の容体と客観的に釣り合っているかどうかを判断する職業上の責任がある。それは客観的な医学的判断であって、恣意的な判断であってはならないことは当然である。[……]しかし、疑わしいときは患者の生命と健康の保護を使命とする医師の職務倫理上の最重要原則に忠実に、治療を継続しなければならない。」 「通常外あるいは釣り合わない治療の基準 この基準は時間と場所における医療の進歩の程度に従属する。ある国では釣り合いのとれた治療が、他の国では不釣り合いな治療である場合もある。医療の進歩によって、それまでは不釣り合いであった治療が釣り合いのとれた治療になる場合もある。」 「この問題の真の解決は、末期患者に必要な人間的なケアの提供にある。執拗な治療を中止するだけでは問題は半分しか解決しない。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 83-85) 「植物状態の患者を含めて病者は基本的なヘルスケアを受ける権利を持ち、それは栄養、水分、清<87<潔、暖かさ、リハビリのための適切なケア等を含む。[……]教皇は、植物状態患者のケアが家族に過大な負担をかけるという見解に対しては、家族だけに負担を負わせずに、社会全体でサポートする体制を整えるべきことを提唱した14) 。」 注14) Giovanni Paolo II, Un uomo, anche se gravemente impedito non diventera mai un “vegetale”, L'Osservatore Romano del 20-21. 3. 2004. これは、植物状態患者の栄養・水分補給をめぐって当時米国の法廷で争われていたテリー・シャイボ事件を視野に入れて、教皇庁生命アカデミーとカトリック世界医師会共催の国際会議「生命維持治療と植物状態:科学の進歩と倫理のジレンマ」の声明(Pontifical Academy for Life, World Federation of Catholic Medical Associations, International Congress on “Life-Sustainng Treatments and Vegetative State: Scientific Advances and Ethical Dilemmas”, Joint Statement on the Vegetative State - Scientific and Ethical Problems Related to the Vegetative State)に対して寄せられたものである。しかし米国連邦最高裁は、植物状態患者の水分・栄養分補給の取り外しを認める「持続性植物状態患者に関する神経学会の見解」(1988)に従うこれまでの判例を踏襲して人工栄養・水分補給の停止を認める判断を下し、2005年3月、テリーは衰弱死した。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 87-88、注14)は87p.) 3 自己決定権の保障:主観的基準による解決 「尊厳死問題は、欧州では適正な医療の問題として検討されてきたが、本人の現在の意思が明らかな場合は、尊厳死問題もIで述べた治療行為の正当化要件としてのICの問題に解消することができる。治療拒否権の行使は、患者が末期状態にある場合でも、また、たとえ治療拒否が致命的な結果をもたらす場合でも特に区別されないからである。尊厳死問題はその限りにおいては、患者の自己決定権の問題でありうる。しかし、尊厳死が問題となるケースのほとんどは患者の現在の意思が不明の場合においても、患者の事前の意思を尊重することや現在の意思を推定することなどによって、患者の自己決定権を基準とした解決が試みられてきた。[……]」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 90) 「治療拒否権はドイツでは早くから身体の完全性への権利として認められてきた。しかしクィンラン事件判決は、患者の権利運動の結果勝ち取られた自己決定権原則に基づいて、治療拒否権を新たにプライヴァシー権として位置づけ、以後の判決も、尊厳死の問題を患者の自己決定権の問題として処理してきた。これはおそらく、生命の終わりを支配し、コントロールし、プログラムするに至った先端医療技術からその支配力を自らの手に取り戻そうとする要求に基づいたものである。しかしこの考え方は自己の生命の処分権を前提にしているため、治療拒否権の要求は、積極的安楽死や自殺権の要求へと容易に拡大するのである。[……]」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 91) 「本人意思を推定しようとする方策が、結局は本人意思の擬制に陥らざるをえないことは、すでに多くの指摘が見られるとおりである。事前の意思表示があってもその時点では気が変わるかもしれない。意思を推定すると言っても本人はその時点では何も意思していないかもしれない。推定された本人の意思は、実際にはそれを推定する他者の意思にほかならない。そもそもプライヴァシーの代行という考え方それ自体が奇妙である。プライヴァシー(私事)は文字通り私だけのもので、他者が代行できるような類のものではない。」 (ヨンパルト・秋葉, 20061225: 91) 「主観的基準モデルは特に社会的弱者の尊厳と人権<0091<を保護するために不十分である。[……]契約が尊厳を侵害しているなら、本人の意思にかかわらず禁止すべき場合もある。自らの意思を表明できない末期患者についても、また頼るべき家族のない者についても、客観的な医学的基準に則って平等に人間的なケアが施されるべきである。末期患者の生きる権利、過剰な負担を強いる執拗な治療を被らない権利(身体の完全性への権利)、それに代わる人間らしい基本的ケアを受ける権利は、植物状態の者であれ、もはや意識のない瀕死者であれ、すべての者に平等に保障されなければならない。 しかし最大の問題は、主観の絶対視は医療行為を歪めることである。患者の意思の尊重だけを強調すると、早すぎる延命治療の中断や積極的安楽死の訴えを招き、適正な医療を歪める危険がある。医師に対しても、客観的適正性を欠く医療の提供を強要することになる。医療は患者の健康の回復という別の目的を持ち、医師は、患者一人一人によって異なる、その目的のための最善の治療法を医学的知識と良心に基づいて提供することを義務づけられている。それは、単なる恣意的な判断や自らの死生観や価値観の押しつけ<0092<ではなく、専門職としての科学的知識と良心に基づいた客観的な判断であり、患者にとって最善の治療を保障するもののはずである25) 。 日本では最近、本人意思の推定が擬制に陥らざるを得ないことを認めて、身上監護権者を指名できるよう成年後見制度の拡充を求める見解や、家族の代諾による治療拒否を認める見解が見られる。しかし、その場合はどのようにして、患者の状態に釣り合った治療が確保されるのだろうか。患者は正しい医学的診断に基づいて最善のケアを受ける権利を有する。そして人間の尊厳と権利の保護に対して国家は最大の保護義務を負う。意識不明に陥った患者の尊厳と権利が、なぜ病者の救命義務を負う医療専門職の責任に基づいた判断ではなく無資格の一個人の裁量に委ねられてよいのか、根本的な疑問が残る。 注25) [……]科学的知識と良心に基づいた専門的な判断は、裁判官の判断と同様、単なる「裁量」(自分の意見で取り裁き処置すること〔岩波国語辞典第4版〕とは異なる。川崎協同病院事件判決が、「医師は医学的な治療の有効性を判断すべきであって、患者の『死に方に関する価値判断』を行うべきでない」としているのは当然のことであるが、このようなことをわざわざ断らなければならないところにこそ大きな問題があるのかもしれない。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 92-93、注25は92p.) 「積極的安楽死の合法化も、医療を歪めるもう一つの例である。患者の自己決定権が積極的安楽死の請求権に拡大するとき、それに応じる医師の職務上の義務が発生する。しかしそれは医療行為の限界を超える。積極的安楽死の合法化は本来医療行為でなはないものを無理に医療行為に組み入れることによって、医療行為の全体と医師の職務倫理を歪める。[……]<0095< [……]患者の自己決定権による解決を求める論者の主張は、ときおり医師に対する深い不信に裏打ちされている。しかしそれによって医療全体の質が低下すれば、良質な医療を受ける他の人の権利まで侵害することになる。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 95) >目次 第3章 殺害行為をめぐる問題―人間の尊厳と生命の客観的価値:生命の等価性と殺害の禁止 VI 安楽死 1 古典的な安楽死:慈悲殺の論理 「[……]キリスト教の到来は安楽死の思想と実践に深い転換をもたらした。以後、トマス・モア、ベーコン、ロックらにおけるストア主義あるいは功利主義思想の再現を別にすれば、ナチスによる組織的な安楽死の実践まで、安楽死が歴史の表舞台に大々的に姿を現すことはなかった。[……]<0149<[……]1939年から1941年までの間に、「生きる価値」がないと判断され、「慈悲によって安楽死」させられた障害者の数は7万人以上にのぼる。この衝撃的な出来事によって、安楽死の合法化を求める声は、20世紀の終わりまで西洋では完全に排除された。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 150) 「[……](大谷補注:山内事件)判決に論理的な裏付けを与えたのは、「安楽死を正当化するものは本人の『意思』ではな」く、「人間的同情であり、人道主義的な動機である」と主張する小野清一郎博士の1955年の論文であったと言われている。しかし、人間的同情による殺害を正当化する論理は、ナチス政権下で合法的に行われた「生きるに値しない生命」の慈悲による抹殺と同一である。実際に、小野博士の論文は、ナチスの安楽死に理論的根拠を与えたビンディングの論文に依拠していた。[……]<0151<しかし、慈悲殺に基づく安楽死の合法化を認めた名古屋高裁判決が、ナチスの非人道的な行為への真摯な反省から出発した第二次大戦後の国際社会に逆行するものであったことは否定できない。今日、この判決の論理を支持する刑法学説がほとんど見られないのも、そのためである。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 151-152) 3 積極的安楽死合法化の問題点 「患者の権利」を、治療拒否権を超えて、積極的安楽死や自殺幇助を医師に要求する権利にまで拡大するオレゴン州やオランダ等で新たに出現した傾向に対して、多くの欧州諸国は同一の方向をたどらなかった。医師職能集団がヒポクラテス以来の職務倫理に則って患者の殺害を拒否したからである。[……]イタリアでは1995年に医師の職務倫理規定が改定され、患者の自己決定権の尊重による延命治療の差控えを認める一方、「医師は殺害義務を負わない」として積<0155<極的安楽死を禁止した。[……]こうして、医師は新しい倫理規定の下で、末期の苦しみにある患者に積極的安楽死も過剰な治療も施さず、患者の意思を尊重しながら救いの手を差し伸べなければならない、という難問を課せられることになった。しかし同時に、この困難な状況を克服することこそが真の高度医療技術の進歩である、という明確な認識と目標も得られたのである。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 156) 「[……]患者の自己決定権を保障するための法制が、逆に積極的安楽死の実施を決定する医師の権限を認める結果を招いている。 権利の承認は義務の考えを涵養する。積極的安楽死を求める権利は、一定の条件を満たした場合に積極的安楽死を求める義務に転換する。それは法によって課せられた安楽死の義務になる。オランダでは文字通りそれが現実化しているように見える。さらに、もし重病者やその家族、医師が正当に死を決定し、それを実施することができるなら、少なくともある条件の下で、なぜ国家が同一の権利を持ってはならないのだろうか。[……]まずナチス政権下での安楽死が思い起こされなければならない。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 157) 「「生命は私のものであり、私がしたいようにする」。しかしこれに対しては存在論の立場から、自己決定は本人の主観的評価を離れた生命の客<0157<観的価値を凌駕しえない、と反論しうる。[……]個人の自己決定はその個人が置かれている環境に依存するものであり、死への自己決定権を認める社会は、社会的弱者をいっそう死の自己決定へと追いやることを指摘することもできる。[……]個人の自己決定は尊重されるべきであるが、個人は社会的存在でもある以上、周囲の人々や社会全体に及ぼす深刻な影響への配慮から、政策的にそれを規制しなければならない場合があるのは当然のことである。」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 157-158) >目次 VII 人工妊娠中絶(早期安楽死) 3 女性の自己決定権と優生思想の内在化 「この事件[大谷補注:ペリシュ事件。関連した注は32)]では両親が子の代理人として子自身が被った固有の損害の賠償を求め、それが認められたことが大きな問題となった。なぜなら、それは、障害を持って生まれたこと自体を損害と認めることだからである。この判決が目指したのは、医療責任を拡大し、併せて障害者支援を図ろうとすることにあったと考えられている。しかし、生まれたこと自体が損害であるとすることは、中絶による死が胎児の利益であるとすることであり、要するに「生きる価値のない生命」の存在を認めることにほかならない。 ペリシュ判決は障害者団体などの強い反発を招き、産婦人科医であるマテイ議員の尽力によって、2002年に「反ペリシュ法」(「患者の権利および保険制度の質に関する2002年3月4日の法303号」)が制定され、出生のみを理由とする損害を主張することはできないこと、障害者に対する救済は社会全体で図られるべきであること、すなわち「障害者に対する連帯」費用が支給されるべきこと<0171<が定められた。 注32) Call.Ass. plén., 17nov.2000: Bull. civ. I, no9.評釈として、本田まり「フランスにおける先天性風疹症候群出生と医師の責任」上智法学論集45巻3号(2002)199-202頁、滝沢正「紹介・フランス(判例・立法)」比較法研究64(2003)208-211頁。」」(ヨンパルト・秋葉, 20061225: 171-172、注32)は171p.) 作成:大谷いづみ UP:20070819 REV: ◇安楽死・尊厳死 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |