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J.フレッチャーとバイオエシックスの交錯
――フレッチャーのanti-dysthanasia概念――

大谷いづみ 20091115 日本生命倫理学会第21回大会シンポジウム
 「生命倫理の歴史的現在――メタバイオエシックスの視点から」


 ジョセフ・フレッチャー(Fletcher, Joseph, 1905-1991)は、『状況倫理(Situation Ethics)』(1966=1971)で日本の哲学・倫理学界にもよく知られた人物であるが、アルバート・ジョンセンから生命倫理学の誕生を先駆的に牽引した「三人の米国の神学者のうちの一人」と評されてもいる(Jonsen 1998)。たしかに彼は、1954年に刊行した『医療と人間(Morals and Medicine)』(1954=1965)で、早くも、告知、産児調節や人工授精、人工妊娠中絶、安楽死など、現在の主要な生命倫理問題に直結する論題を提起しており、フレッチャー自身が述べるところでは、カトリック以外で医療における倫理問題を取りあげた最初の書籍である。彼はまた、アメリカ優生協会会員、アメリカ安楽死協会会長、産児調節協会研究顧問をつとめるなど、多彩な社会活動の経歴を持っている。
 そのフレッチャーは、1961年末から1962年春までの短い間に、従来の「安楽死」とは似ているようで異なる、あるいは異なるようで似ているanti-dysthanasiaなる概念と用語を創出しようとした。彼の試みは1970年代初頭、第三回医事法学会総会シンポジウム、「望みなき(?)患者の治療」において刑法学者宮野彬によって「患者の生命を引き延ばす問題―治療義務の限界の一側面」と題した報告で「反・苦難死」として紹介され、日本における「尊厳死」思想の淵源となった。
 フレッチャーの安楽死論の変遷を概観すると、まず安楽死に非自発的な優生学的安楽死(involuntary eugenic euthanasia)と自発的な医学的安楽死(voluntary medical euthanasia)の別、直接的と非直接的の別がつけられる。次に、医学の進歩が延長した「悪しき死」の過程の終結を、非直接的な死の惹起を意味するanti-dysthanasia概念によって倫理的に正当化する。さらに、非直接的な死の惹起では悪しき死が継続されるから、直接的、積極的な死の惹起の方がさらに倫理的であることを強調するにいたる。これはいまやレイチェルスやクーゼをはじめ今日のバイオエシックスでなじみ深い論理構成である。
 フレッチャーはまた、anti-dysthanasiaを施すにあたって、昏睡状態にある患者は理性的判断ができないがゆえに人格とはみとめられないから患者の同意は不要であるとし、その前提として中絶や新生児の治療中断を正当とする。彼はこれを「人格主義の倫理」(ethics of personality)と呼ぶが、これはトゥーリーやシンガーを最前衛とする、しかしバイオエシックスに通底するパーソン論の原型といえよう。
 そしてまた、優生主義と「人格主義の倫理」を基本とするフレッチャーの死(と誕生)の統御の論理構成と、日本安楽死協会(現、日本尊厳死協会)を設立して日本の安楽死運動(と産児調節運動)を牽引した社会活動家、太田典礼の論理構成の酷似は、日本の生命倫理学の生成史を考える上で興味深い事実である。
 現在の「尊厳死」法制化の急速な動きは、日米の1970年代の再来ともいえる。比較して、議論の枠組みと論点そのものは1970年代とさほど変わってはいないにもかかわらず、その表現や論理展開に格段の洗練がみられる。この洗練化に、この間30年のバイオエシックス/生命倫理学の導入と推移は無縁ではない。
 本報告では、「尊厳死」思想の淵源を生命倫理学の先駆者であるジョセフ・フレッチャーが創出したanti-dysthanasia概念にたどりつつ、医師幇助自殺の拡大やスイスへの自殺ツーリズムで揺れる米英の現況と比較して、その企てが意味するところを考察する。本作業によって、治療中断をめぐる日本の近年の論議で後景化された核心を指摘し、今後のバイオエシックス/生命倫理学が検討すべき課題を展望したい。


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