[ topworks

「高校「倫理」の教育内容と教科書編集に関わる諸問題?
――「いま」「ここ」で「知を愛すること/善く生きること」を問う営み――

大谷いづみ 20090517 日本哲学会第68回大会WS 「高等学校「哲学・倫理」の現状と課題」


1.はじめに
 高等学校は学習指導要領や教科書など、法的に規定されて、大学にはないさまざまな制約が存在する。以下、本ワークショップとテーマの主旨をふまえながら、高校の「倫理」教育と大学における哲学・倫理学教育との架橋を展望する。

2.たかが教科書、されど教科書
 高等学校は義務教育ほどリジッドではないにせよ、学習指導要領に規定され、それを具体化したものとしての教科書が存在する。その性質上、教科書の内容は標準的で網羅的にならざるを得ない。それゆえ、まともな教師であれば、教科書や教科書準拠の資料集(だけ)に頼ることなく、原典や文学作品、関連文献や映像資料、時事的なトピック資料などを用いて生徒が生きる「いま」「ここ」に即したリアリティのある授業を展開するに違いない。教科書は授業にあたってのスタンダードであると同時に手掛かりである。手掛かりにすぎないともいえる。
 教科書は学習指導要領とその解説に基づき、各社工夫をこらして執筆・編集される。高校教科書は小中学校とは異なって各校に採択が任されており、その意味で現場の裁量は大きい。それゆえに、教科書もまた市場原理にさらされているのであり、それは教科書の執筆・編集を規定する、隠れた、しかし厳然たる主要な因子である。

3.教科書・授業・入試の循環構造
 学習指導要領の内容は大別して@青年心理分野、A源流思想、B西洋近現代思想、C日本思想、D現代の倫理的諸課題であり、BCはかねてより暗記中心学習と批判されるところだが現行では概略が示されているだけで具体的な思想家の名は登場しない。採択率からみる限り、思想家の名や主著、概念をゴチック体にして網羅的に記述された教科書が選好されるが、教師が眼前(<眼前>に傍点)の生徒の「いま」「ここ」に問いかける授業を展開するための資料を自ら用意するのであれば、教科書は手掛かりにすぎないのだから、個性のないスタンダードでカタログ的な教科書はむしろ望ましいのかも(<のかも>に傍点)しれない。しかし、現実はそのような牧歌的なものではない。
 ひとつはセンター入試を念頭にしたと思われる採択である。出口(偏差値に応じた大学合格率)が入り口(高校・中学受験志願率とその層)を決めるのだから、教師は多かれ少なかれ大学入試を意識せざるを得ない。生徒はセンター入試に備えて網羅されたゴチック体を(意味も考えずに)覚え込み、教師はそのための授業を展開して穴埋めプリントを供す。
 とはいえ、倫理=暗記科目の元凶は必ずしも入試だけとは限らない。解説+板書の一方向の講義をもって教室内の秩序を図り知識の多寡を基準とすることは、多忙ななかで効率的な授業をこなし成績評価の説明責任を求められる現代にあって必然ともいえる。学力低下と学級崩壊はそんな言葉が世間に流通するより前から高校現場の一部を支配していたから、出口の向上とともに秩序ある教室空間をもって生き残りを図ろうとする中堅校がかくなる授業に拘泥するのも無理はない。
 こうした傾向に拍車をかけるのは哲学・倫理学出身教師の激減である。現場の多くは「日本史」「世界史」か「政治経済」の教師が「倫理」を専門外で担当する。それゆえ、授業内容はいきおい「日本史」や「世界史」の文化史限定版のような思想史学習か、社会契約説を中心にした制度学習に近いものになりがちである。どころかセンター及び二次と私大文系入試の王道たる歴史科目を補完するものとして歓迎される。
 団塊世代の大量退職にともない、もしも奇跡がおこって今後哲学・倫理学出自の教師が大量に採用されたとして、では、こういった状況が改善されるだろうか。たしかに、かつては一定程度「倫理」専門教師が確保され各科目の専門性が尊重されていた時期や地域もあった。だが、そのような状況下においても「倫理」=暗記科目という批判は免れなかった。哲学・倫理学のトレーニングをうけて「倫理的なものの見方・考え方」の真髄が教えられているはずの授業も、最後の評価方法が穴埋めテストであれば、最終的に「暗記」が学習の方法となるのも無理はない。
 このような状況はいわゆる思想史学習に限定されない。生命、環境、情報をはじめとする課題探究学習についても、センターや小論文入試を想定して学習指導要領に設定された諸課題すべてを限られた授業時間内で終えようとすれば、要点を要領よく解説した講義にならざるをえない。討論や調べ学習、プレゼン、論文などは、課題探究学習で期待され(てい)る学習形態だが、浅い知識でこれらのかたちだけをなぞれば、その「成果」は卑小なものにしかならない。実のあるものにしようとすれば、授業時間内外を問わず、作業に必要な膨大な時間を要する。教師の側の相当な負担はいうまでもない。
 学力低下・学級崩壊の小学校から大学にまでいたる顕在化で、暗記・注入学習の復権を求める声も大きいようである。だが、現在の高校生の「暗記」は、意味理解の手間をはぶいた、テストの時だけ絵文字を飲み込んではき出すような営為である。たとえ覚えるためにであっても、そのために理解し考え、そこに彼らの「いま」「ここ」が瞬間的に交錯するような作用を多くは期待できず、それはゲームの反射神経に似たものとなる。穴埋めマルバツに象徴される「ただ一つの正解」への即答を求めつづけた「成果」は、進学や就職試験の小論文や面接にあたって「自分」を見事に消去して「自分」を売り込む、金太郎飴のような一様な応答である。こうして、いかに学習指導要領が変われど一向に変わらない、各種調査で評判芳しからぬ暗記一辺倒の高校「倫理」の授業風景が続く。教科書・入試・授業の負の循環的連鎖構造である。

4.高校と大学の接点(と、ささやかな希望と)
 ところで、これらの問題は、ひとり高校「倫理」の問題ではなく、大学の哲学・倫理学教育にも共通する問題ではないか。教養教育の哲学・倫理学をその理念に忠実に行えば入門的概説的なものになろう。倫理学ではいわゆる生命倫理や環境倫理などの応用倫理学を核にして行われているかもしれないしこれに特化した教養科目が設定されている大学も少なくないはずだ。課題探究学習でめざされている主体的な学習は、大学の小集団科目やゼミでのプレゼンやレポート、論文のミニマム版でもある。
 つまり、高校「倫理」教育の課題は即ち、大学の「哲学」・「倫理学」教育の課題である。高校「倫理」の教科書と教育内容に入試が大きな影響力を持っているのが厳然たる事実だから、入学試験、とりわけセンターテストが鍵になることはいうまでもない。制度がもたらす問題は確かにある。しかし、制度云々の前に/とともに、できること/すべきことも多々ある。
 希望はある。自らの存在価値の危うさに悩み世界の荒廃を憂い、何をしてよいかわらず佇む生徒・学生がそこここにいる。教育現場の困難は、そんな困難を生じさせている現在の社会のただ中に在る生徒たちの困難にほかならない。だが、そこからの脱出の方途を求めてやまない生徒/学生は、こんな時代だからこそ確かにいて、彼らのうちから一人ふたりと、本気でこの問いにとりくみその答えを生きはじめる者がいる。だから、知を愛し善く生きることを自らに問い他者と世界に問う哲学・倫理学の営みは、多くの生徒/学生(の背後にいる保護者も)が内心で求めている営為にほかならない。教師にできるのは、その硬軟の(手練手管をつくした)知的な触媒となることである。学習指導要領が目途としている教育内容がそれを外していないことは、広く確認されてよい。


© 2004-2009 Izumi OTANI. All rights reserved. Up:20090628