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「よく生きる」ことと「よく死ぬ」こと――「尊厳死」研究と「いのちの教育」の狭間で――

大谷 いづみ
2007/06/23 (2007/03/09送付)
日本緩和医療学会第12回総会 シンポジウム2「緩和医療を支える倫理と法」 抄録


 ここ数年,「尊厳死」をめぐる議論がメディアを賑わせ,教育分野では「死を学ぶ教育」が注目されている。終末期医療をめぐる医療者と患者・家族の緊張は,時に「事件」となって世間に伝えられ,その「解決」が緩急であるようにも思われる。その「解決」に法やガイドラインの制定が求められ,さらに,医療従事者への,そしていつか患者・家族となる市井の人への早期の教育として,生命倫理教育や「死への準備」教育が期待される。死にまさる肉体の苦痛は緩和医療の発達によってその多くを除去し得ても,死を前にした実存的苦痛は取り除けないから,それゆえにスピリチュアル・ケアが注目され,癒しにも似た「いのちの教育」が期待されている。
 人は死を免れないのだから,「よく生きること」「尊厳ある生」の末期(まつご)の「よき死」「尊厳ある死」を希うのは当然としても,生と死の「間」には,「死をみつめて生の大切さを知る」という「死を学ぶ教育」でしばしば語られる言葉では尽くせぬ距離があり,そこには老いや病や障害や,「普通」の人々との「異なり」があって,それが時に死を希うほどの生き難さ,生きづらささえも感じさせる。その生き難さは,老いからも病からも障害からも遠い,ごく「普通」の人々の,子どもたちの生き難さともつらなる。それゆえ,「いのちの教育」は,子どもの自殺や殺人という「現実」への処方箋を期待されもする。しかし,問題の「解決」が緩急とされるからこそ,その「解決」が,どのような「解決」を意味してしまうか,一片のガイドラインや数時間の授業プログラムに委ねられる「解決」に陥穽はないか,今一度考えてみてもよいだろう。
 当日は,「尊厳死」が「安楽死」と切り分けられて来た日本の「安楽死・尊厳死」論の歴史と,生命倫理学・死生学がもつ生・老・病・死の語りの構造の検討を報告して,そのための材料を提供したい。


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