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文献紹介 「島薗進著『いのちの始まりの生命倫理
――受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』春秋社(2006年,1月)


大谷 いづみ 2006/10/01『日本生命倫理学会ニューズレター』33:4-5101-118


 本書は,宗教学者の立場から,7年間にわたってヒト胚の取扱いに関する国の審議にたずさわってきた東京大学大学院教授,島薗進氏による審議会の記録である。1997年2月のクローン羊ドリー誕生の報道を機に「クローン人間」への懸念が現実味を帯びたことに端緒して,同年10月に総理府科学技術会議生命倫理委員会が発足し,2001年4月の省庁再編を経た内閣府総合科学技術会議生命倫理専門調査会は,研究目的のヒトクローン胚と受精胚の作成と利用を限定的に容認した「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」最終報告に帰結した。島薗氏は,両委員会において,慎重論の立場から終始活発な発言を続けており,したがって,「第1部 対案・ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」,「第2部 何が争点だったのか」,「第3部 ヒト胚の研究・利用をめぐる討議の経緯」「第4部 資料集」の四部から構成されている本書は,審議のありかたとその帰結への厳しい批判に貫かれている。
 最終報告書の数ヶ月前に世界初のヒトクローン胚からのES細胞樹立に成功してから本書が公刊された本年2006年1月を挟んで今夏にいたるわずか2年余の間に,ヒト胚の取扱いをめぐって隣国韓国でおきたファン・ウソク元ソウル大教授の栄光と挫折(と復活?)は,「生命をめぐる倫理」と「研究の倫理」を深く考えさせるできごとではあった。本書で記録された審議の結論を受けて,文科省科学技術・学術審議会の作業部会は,本年6月に「人クローン胚の研究目的の作成・利用」の実施指針案をまとめたが,その公聴会で,中辻憲夫・京都大学再生医科学研究所長が,当面,クローン胚ES細胞研究には着手しない旨を表明したこととともに,クローン胚研究が将来必要なくなる可能性が「50%以上」という見通しを示したことも,報じられたばかりである(8月27日付け新聞各紙)。そんな経緯とともに本書を読み直して感じるのは,多種多様な領域で生命倫理問題にたずさわる各々が,各々の役割においてまっとうな仕事をすること,すなわち,各々の持ち分においてまっとうな「倫理」のありようのもとに仕事をするという,しごく当たり前なことがどれほど大切で,しかし時になんと困難を伴うことであるかという,驚きにも似た思いである。
 市井に生きる人々の死生観・生命観に根ざした具体的な「生・老・病・死」のありように影響するはずの生物医学研究の動向は,その実現までの距離が不確かで未知数なまま,時にはそれがすぐ間近であるかのような錯覚さえも与えつつ,しかし,時にスキャンダラスな「事件」として伝えられる。その振幅の狭間で「生・老・病・死」の過酷な位相に直面せざるをえない市井の人が希望と絶望の波間を漂うことを考えれば,研究の動向,問題のありようを「伝えることの倫理」もまた,問われねばならないであろう。
 ところで,本書でもヒト胚の取扱いに慎重である原理として頻出するのが「人間の尊厳」という概念である。しかし,主に独仏生命倫理学において提出された「人間の尊厳」という概念がヒト胚の取扱をめぐる議論にどれだけ有効であるかについては,北米圏生命倫理学においてかねてから提出されてきた「生命の神聖性」概念の有効性同様,根本的な疑義がすでに提出されている。坂井昭弘氏は,M・クヴァンテの「人間の尊厳」と「生命の質」を両立させようとする試みが,着床前診断を迂回して「生きるに値しない生命」の抹殺を理論的に正当化しうることを指摘しながら,「人間の尊厳」論法の行きすぎた使用は,この概念が本来持っている規範的拘束力を弱体化するがゆえに,本概念のヒト胚論議への適用に対して批判的な見解を示す(坂井 「「人間の尊厳」と「生命の神聖」─古い規範概念の再検討」『応用倫理学各分野の基本的諸概念に関する規範倫理学的及びメタ倫理学的研究』2006)。
 「いのちの始まりの生命倫理」についての島薗氏自身の考え方については,別に一書を準備されていることを氏が本書あとがきで明言している。本書でその片鱗が示された氏の宗教文化・生活文化に根ざした人間観・死生観・生命観と「人(間)の尊厳」という倫理規範の考究が,氏が拠点リーダーを務める東京大学21世紀COE「生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築」の名にふさわしく,「生命の終わりの生命倫理」をも射程に入れて,次著においてより豊かに,より具体的に著されるであろうことを,筆者は切望する。とりわけ「生命の終わり」においては,「ユダヤ・キリスト教と西洋近代合理主義」に「日本の文化・伝統に根ざした死生学」を対置して終始する紋切り型の語りに陥りがちである。そこにも,島薗氏の,粘り強い骨太の議論を期待したい。

大谷いづみ 千葉科学大学

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